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好きなように話させてよ

SMAPは宇宙へ還るのか

SMAPについて、あんな人やこんな人が文章を書いている。一方で、書くことも侭ならず、口を閉ざすという道を選ぶ人もいる。それでいいのだ。わたしはどちらだろうか。閉ざしていた口を、というより考えないようにしていたことを、考え始めようと思う。ついでに記録に残しておく。SMAPがいる瞬間は、永遠でないのだから。わたしがSMAPのいる世界でSMAPのことを考える時間も永遠ではない、のだから。


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というなんともいえない書き出しだけど、どうもSMAPのことを考えると詩になってしまう。はてなブログが90日以上記事を書かないと広告出すよとか言ってきてわたしのブログにも広告が掲載されていたんだけど、その、90日以上ぶりの記事がSMAPのこと、という。うむむ。まとまらないまま書きます。


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発表がされた時から、なぜだろう、わたしはスマスマの毎週録画を外してしまった。SMAPの姿を見るたびに、「どうしてこのグループが失われるのだろうか」という身も蓋もない問いが降ってきて、悲しいとかさみしいとかいう感情ではなく、「よくわからない」という感情ばかりだった。これは薄れることもなく、本当に何度も何度も「わからなさ」と対峙したけれど、もはやその行為さえ虚しくって、毎週5人のそろった姿を見ることをやめてしまった。今まで当たり前に見ていた月曜10時の番組は、見なくなってもそんなに生活には支障が出ず、「最後」が近づくにつれてパフォーマンスのメッセージ性が増強していくという評判はTLで眺めながらも、「そうか......」程度の感想であった。



今週、スマスマが通常回最後と聞いて、やっと重い腰を上げた。「わからない」わたしは「わからない」なりに「見届けなくてはいけないのではないだろうか」という気持ちが湧いてきて、録画ボタンを押しておいた。SMAPは、すごいなあ、と思う。みんなみんな惜しんでいる。もはや誰かが言葉をかける程度では、覆らない決断を、応援しなくてはならないと思いながら、それでもみんな惜しんでいる。SMAPの最後を、花道を飾ろうと、みんなが餞を。タモリさんも、椎名林檎も、素晴らしい。SMAPじゃない誰かなら、彼らの言葉や歌で、「辞めることを辞める」選択をしてしまいそうなのに、SMAPはそうしない。自分たちで下した決断を、選択を、自分たちの力で正しくしようとしている。SMAPとは、そういう人たちなのだろう。



SMAPは、もはやこちらに有無を言わさず「美しく終わることを見せてくれている」と誰かが言っているのを聞いた。そうだなあと思う。19日のスマスマを見ながら、いつもの通りに番組の最後で東日本大震災と熊本大地震の募金のお願いをする姿を見て、また強く思った。ずっと思っていたのだ、「あの募金のお願いはいつ終わるのだろう」「みんなが東日本大震災の募金なんてお願いしなくなった今も、ひたすらに、やめるタイミングを失ったかのように、ずっと続けるただひとつのグループSMAP」「あまりにも続けてしまったがためにあれを終える決断をした瞬間に、『震災』という出来事全てが見捨てられるのではないだろうか」と思っていたのだ。終わり方を見失っていたのか、終えないことを選んでいたのか。わたしたちにはきっとわからないことだ。けれども、こうして最後は下された。SMAPというものが、スマスマという番組が、幕を降ろすという形で「募金のお願い」は終わる。一番酷くない形で。だれも傷つけない形で。「忘れた」のではないという体現で。ああ、これも一つの美しさなのかもなあ。そう思うわけです。



SMAPが失われることはやっぱりまだ「わからない」けれど、それでもSMAP自身が美しく終えようとしているSMAPのことはわかる気がする。確かにSMAPがいた時代はここにあって、ずっと消えない。みんなが未来で、5人の話をするために、5人は5人の終え方を演出している。「愛が止まるまでは、SMAPSMAPであり続ける」といつしか言ったものだけれど、これは愛なのだ。5人の。



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SMAPはみんなのものだった。全国のもの。だから、たぶん全員がSMAPを惜しむ権利があるし、その思い出を語る権利がある。SMAPはそんじょそこらのコンテンツとは違う。だれが新規、だれが古参、とかいう世界ではない。みんなに等しく開かれたコンテンツ、というかやっぱり本当の「国民的スーパースター」を体現したアイドルだった。


いつの日か元の姿に戻るのか、もう二度とこの形は見られないのか、しれっと共演したりして思い出話を語るのか、もう誰もSMAPの名を口にしないのか。未来はわからない。それはSMAPが決めることで、その選択を必ず彼らは「正しく」するに決まってる。そういう人たちだ。