空間

好きなように話させてよ

感想に添えて

少し前に書いた記事を記録としてここに残しておきます。



本当は固有名詞を挙げずに書き切ろうかと思ったのですが、この舞台はこの舞台とこの演者の固有性で成り立っているからできなかった。


私が書くことになんの力もないし、そもそも見ていないし、誰より何より深く長く考えた座長の言葉が全てに近いと思っているけれど、あまりに大きな出来事だったので書く。自分で見た景色ではない。見ていたらどうなっていたかな、次の舞台を見れる自信がなくなっていそうだなと私は思った。


舞台は命をかける場所である。かけるだけの価値が有る場所だろう。
プロの舞台にのったことはないけれど、アマチュアでやっていてもステージの上には危険で重厚な機材がたくさん吊ってあるし飛び出せばそこは崖だって言われていた。物理的な危険もある。それだけじゃない、精神的な危険だってあるだろう。命削って真剣に向き合える場所だからこそ、すり減らさなければならないものもあって、煌々と光のたかれる眩しい場所だからこそ影になって見えなくなる場所でもあるのだ。明るい場所を浮き彫りにすればするほど沈んでいく真実がある。


舞台は命をかける場所だけれど、本当に舞台の上で命が晒されることがあってはならない。絶対にあってはならない。誰よりも痛切にその事実を分かっている人の元で今回の事故は起きた。何千回と繰り返された同じ舞台、しかしそのどれもが同じではなくて、舞台は顔色を変えてゆく。怪物だ。何年も乗りこなしていたはずの怪物が、ある日だけ暴れた。あれだけの時間の中で、決して甘えることもなく油断をすることもなく弱さを見せることもなかった座長なのに。彼の元で。どうしてあの場所だったんだろう。次、こんなことがあったなら、例えこの座長の舞台でも幕を引くことになるだろうなと思った。二度と幕はあげられない。不慮であろうとそうでなかろうと、「信頼」が大切にされる現場なのである。


私はあれからしばらくこわくてこわくて仕方がなかった。舞台という化け物がこわかった。大きなセットというものがこわかった。それからしばらくしてコンサートに行って、セットには向き合うことができたけど、まだ舞台には行けていない、劇場には行けていない。まだこわいかもしれない。思い返してみても、この事故は大きかった。


その一方で、事故が起こった場所がこのカンパニーでよかったと思っている自分もいた。誤解を恐れずに書く。決して事故が起きてよかったと言っているわけではない。でも、同じ劇場で同じ事務所ながらもっともっと小さな子どもが平気で座長をやるような舞台だってあるのだ。そこでなくてよかった。Show must go onのイズムで、それぞれが舞台の上での哲学を持って、自分の踊る意味歌う意味を問うて、真剣に向き合えていた舞台でよかった。いくら、そういうことをとうとうと語ろうとも、やはり小学生から大学生までで構成される舞台はこわい。そして、大人が扱うような、大人がもしかしたら乗りこなせない場合だってあるような大きな装置と大きなセットを持ち込んで、同じように演出しているのはたまらなくこわい。自分たちが生み出していったものではなく、誰かが生み出したものに乗せられてしまうことは自分の命を軽率に預けてしまうことではないのだろうか。覚悟を持って生きられる舞台を作って欲しい。こんなことを言うのは酷だけど、身の丈に合う舞台にしか立ってはならない。順序はやはり守られなければならない。舞台は甘っちょろい場所では決してない。





という記事を遥か昔に書いていました。
私がEndless SHOCKという舞台をどう考えていたかという補足と、こういう真剣さを彼に学んできてほしいのだということ。それからまた冬に幕が上がるであろう舞台を思ってやはり上げておこうと思って公開しました。