読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

空間

好きなように話させてよ

「好きなものは好き!」と言えるきもち 抱きしめてたい

最近になって自分の好きなものに対するスタンスが変わってきたかなあと思うことがあります。
好きなもの、というか、好きな人。じたん。


ちょっと前までは、「好きだけど好きって言いたくない」対象だったなあと。
貶してるとかそういうことではなくて、好き好き好き~って言うのが恥ずかしかった。向こう側からの愛がかわいくてキラキラしててそれがちょっと私には重たくて。


でも、今は違うなあって思うのです、具体的にいつからっていうのは難しくて分からないんですけど、「なんだかんだ好き」の時期を経由して「すきだなあ」と思うようになりました。
いろんな条件付きの「好き」だったのにだんだん剥き出しの素の「好き」になる…そういう感じです。


好きでいるスタンスってひとそれぞれあっていいと思っていて、自分はこの「なんだかんだの愛」でいいやと思っていたのですが、それでもやっぱり素直にかっこいい、かわいい、美しい、一番好きだよって表現してる人を見ると、不思議と自分も幸せを分けてもらっているような気分になるし、自然に私もその人のことをプラスのイメージで見るようになっていくので、ちょっとだけ憧れていました。


まだまだそんなふうな表現ができるような人ではないですが、以前よりだいぶ、無条件の好き、を感じていて、自分のなかではとても幸せです。


なんでこうも変わったんだろう~と考えたのですが、きっとたくさんきっかけはあって思い出しただけで心当たりは結構あります。
不安定でもその脆さから普段以上の輝きを放つ人たちを応援したり、野外のステージで好きな人に会ったり、少し自分が大人になったり…。


中でも大きく感じるのはじたんに限らず「好き」に対しての自分の感覚が変わったことだと思っていて。
それは「キライ」に対するエネルギーがもったいなくてその感情が芽生えた瞬間にそっと目を閉じちゃうクセを身に付けたからなんだと思います。(自分の見るものを狭めているのも確かなので、これがいいことか悪いことかは一概には言えませんけど…)
ネガティブな気持ちを持たないように生きていたら、好きなものにはちゃんと「好き!!!」と言わないと自分の好きなものに対する感性が鈍くなっちゃうなあ、と。
気持ちを隠したらだんだん何が自分の気持ちか分からなくなっちゃうよ、と。


何をやっていてもそうですが、結局最後に信じるべきものは自分の感覚で、例えばネット*1やっていてもマナーやらリテラシーやら発言やらにおいても、許せるものと許せないもの、信じられるものと信じられないものの線引きを決めなきゃいけないのは自分次第なところがあるなあと痛感する今日この頃なので、自分の感覚を鋭敏にしておくにはまず自分の好きなものにちゃんと「好き」と思うことから始めなきゃ、と心掛けるようにしました。


こうしてみると、楽しいときには楽しい、悔しいときには悔しい、と隠すことなく表情に出してくれるじたんかっけえーってなりますね。
自分の気持ちに素直で真摯で真っ直ぐなあの人が「好き」です。


今なら、ハニー呼びも受け止められちゃいそうだわ…!

*1:たくさんの人がいるところにその分だけの多様な考え方があるのは当然ですよね、ネットは特に顕著だし